January 2016
もし今も生きていたら、どんなギターを聴かせてくれていただろうか?
元旦は毎年恒例の平山薬師へ初詣に行ってきた。
平山薬師の敷地内に平山神社が御鎮座してます。薬師様の方はたくさんの初詣客で賑わっていますが、こちらの神社まで足を運ぶ方は初詣客の1~2%ぐらいに思えます。寺院の右側奥に神社は御鎮座しています。
わりと新しい鳥居が迎えてくれます。
鳥居の足場であったであろう礎石の一つ。明治十ウン年?。九の文字も見えるが、、、正確な年月は解らなかった。
石段を上がると左側に手水鉢が2鉢並べて置かれている。
右側の手水鉢には明治十?年九?月吉日の文字が読めます。鳥居の土台の石と同じ時期に奉納されたことが想像できます。
左の手水鉢も右側面に年号が彫られていると思うのだが、私にはこの手水鉢ずらせる自信が無いっす。(笑)
石の祠が2宇。
形のしっかり残ってる祠の方でも年号は確認出来なかった。
社殿。拝殿と本殿が一体型と思ったのですが、、、
横にまわってみると、
後ろ側に本殿がありました。
平山神社では江戸期の年号は見つけられなかった。しかし、平山薬師様が千年以上の歴史があるので平山神社の歴史もかなり長いと思えます。
今年も良い年になりますようお祈りして帰路につきます。ちなみに、こちらの灯篭は年号が見当たらなかったように思います。見た感じではそれほど古い時代の灯篭では無いでしょう。
その4からの続き。
それでは社殿を見てみます。石段を上がった場所からは超広角レンズを使用しないとフレームに社殿が収まりません。
正月を目前にしてますので注連縄がさがってます。
御額。
後ろに崖が迫っているため、社殿が拝殿と本殿が一体型と思っていた。しかし、脇から奥をよ~く見ると本殿が見えました。
拝殿左側には摂社があります。左の建物は集落の公民館です。中では正月も近いので氏子の方が何人か集まって話をされてました。
拝殿周りの回廊?下の支え木も立派ですね。
いつも思うのですが、灯篭や狛犬様みたく社殿にも竣工年月が記されていれば嬉しいのですけどね。
神社の木造建築物は、どのくらい昔に建てられたのか本当に解りませんわ。
もちろん建て替えしてから30年ぐらいまでなら、すぐにこれは新しい社殿だな!と解ります。
しかし、このくらいの木の色になってくると、50年前、100年前、200年前の建築物です!と言われれば、それなりにその古さに見えてしまいます。←私だけか?
社殿の中のどこかには建築年月が記されているのでしょうか? もし記されていたならば小さなプレートに書いて見える場所に貼っておいてもらいたいです。(一個人の希望です。('◇')ゞ)
本殿後ろに崖が迫っています。普通の山や崖なら奥に入ってしまいますがここは神社です。神域です。もう少し本殿脇に近づきたかったが、これ以上は進むのは止めます。
拝殿には、いままでに見たことないような形の太鼓。
正月まで出番待ち。
拝殿前からの眺め。遠くには内房の海も見えます。
石段を下りる前に灯篭を見た。光の当たり方に因りますが、最初に見た時よりこの場所から見た方が字がハッキリ読めるじゃないの。(笑)
さあ、今日は昼飯前に神社に寄りましたので、これからいつもの道の駅に向かうことにします。
いつもの道の駅『三芳村』にてミカンや花、野菜を買いオニギリタイムを済ませ、暗くなる前に家に着くよう15:30頃には道の駅を出発です。この時期の夕方、澄み渡る冷たい空気の中を青色の空とオレンジ色の夕陽に抱かれて走るのは、とても気持ちが良いですね。
本日の走行距離184キロ。
使用カメラ PENTAX K-X
おまけに続く。
その3からの続き。
それでは2組目の灯篭を見てみます。
左側の灯篭。これは風化と言うか浸食と言う方がピッタリです。
う~ん?
彫られてる文字は、、、これは酷いです。
次は右側の灯篭です。左側の灯篭と比べると、同時代と思えないほど形がしっかりとしています。しっかりしてる!と言っても灯を入れる部分は両方の灯篭とも無くなってますが。何故、ここまで差がでるのでしょう? 不思議だ。これなら年号も確認できそうだ。
写真では解り難いが、弘化五年戊申(1848年)三月吉日と彫られてる。弘化五年二月二十八日は嘉永元年に改元された日になるので、正確には弘化五年三月は嘉永元年三月が正しいですね。(以前にも実際にはありえない年号月の灯篭だったか?年号を見たことあります。)
江戸時代の御神燈です。
青空に冴える銀杏の木かな?
7段の石段を上がると狛犬様が出迎えてくれます。
う~ん、文字が~、苦しい~。燈篭よりも文字が見えんぞ~。くるじ~ッ!
しかし、何故こんなに粉?を噴いてしまうのでしょうね。(干し柿じゃあるまいし。)
それが無ければ彫られた文字はかなり読めると思います。
私には文字、解読不可でした。(;^_^A
その5に続く。
その2からの続き。
社殿右側手前に手水舎が2カ所あります。山車の蔵?もあります。
まず右側(手前側)の手水舎。井戸です。いまは使われていないのでしょうか?
水神様がいらっしゃいます。この井戸は、おそらく今使われてる手水舎以前に使われていたのではないでしょうか?
新しい手水舎です。が手水舎と山車の蔵の間にも井戸?
こちらは手水鉢が新し感じです。白色の文字も冴えて見えます。おっと、2組目の灯篭があります。
菊の御紋。
奉納された方の名前はあるが年号は見当たらなかった。
手水舎後ろに井戸らしき跡が。何なんだ?これは? 今の手水舎の蛇口の水はこの井戸からか? その場合ポンプは何処に???
この写真左側少し外にも先ほどの井戸跡に似たような物が。
何でしょう? 先ほどのは窪んだ場所に石で蓋をされていたが、こちらは窪んだ場所ではない。よく見ると後ろ側がコンクリートの地面になってます。おそらく、その下に何らかの空間があり、そこへの出入り口のように思えます。例えばお墓みたいな作りと言えばいいのか。後ろに見えてる石碑を見ておけば良かったのですが写真も撮ってなかった。失敗しました。(;´・ω・)
その4へ続く。
その1からの続き。
国道127号線から参道は真っすぐに社殿まで続きます。
左側の灯篭。形がしっかりしているので、そんなに昔に奉納された感じはしない。
右側の灯篭。
年号を調べたかったが、この灯篭の石(名前が解らん?)がとても風化に弱そうで彫られてる字が解読不可です。
昭和?に見えるような。。。年?(位置的に)と月の字が見える。その下にも?通常だと『吉日』とか。でも、これは違うっぽい。。。(;^ω^)
また、鳥居の写真を撮るの忘れましたが、鳥居には年号などの文字が見当たらなかったと思います。あれば撮影してますから。あ~やばい!ブログアップが遅くなると記憶が定かじゃな無くなってきますね。(笑)
鳥居を潜ると右側に石碑があります。
この白い表面に付着しているのは、石の中の成分が長い間に染み出てきて固まったものでしょうかね?
石の種類に因るでしょうが、狛犬様や灯篭などでもよく見かける状態です。石碑の後ろ側にある丸っこい石が気になる私。
う~ん、何か文字が彫られていたようにも見える。もしかして『力石』?(笑)
『家内安全』と彫られてます。
明治三十二年(1899年)六月吉日の奉納です。いつの時代も『家内安全』が一番ということですね。
今日はとても良い天気。バイク日和です。
その3へ続く。
12月30日(水)は2015年のラストランバイク神社巡りです。
今回も毎度の11時近い出発となりました。('◇')ゞ
高速を南下していつものICで下道へ。今日はいつもオニギリタイムをする道の駅『三芳村』へ行く前に神社へ寄ることにします。
場所はほぼ国道127号線脇と言えるほどの場所に御鎮座してます。自分の後方はすぐ国道127号です。写真の左側奥へ続いてる道は地図から推測すると、おそらく旧道と思われます。
自分の後方は国道127号線。国道手前に、なぜか防火用水がある。なぜここに。不思議だ。
もしかしたら昔はここに湧水があって鹿島神宮にある御手洗のように禊をしてから神社に参拝したのであろうか? と想像したくなるほどです。(私の考え過ぎかな?笑)
村社『豊受神社』。実はこの神社のある南無谷地区にはもう一か所、同名の神社があります。これも不思議な感じがします。以前も同じ名前の神社が近くに御鎮座していたことがありますが御鎮座する集落名は違っていたと思います。同じ集落名の中に同じ名前の神社あるのは珍しいように思えます。なぜ2社あるのか?
またまた勝手に想像してしまいますが、この南無谷という地区が江戸時代と現在が同じ範囲だと仮定すると、なんとなく自分勝手に都合よく想像できます。(笑) ここの地区の住居地区は大きく分けて南と北の2か所になってます。(北側の集落のほうがはるかに小さい。) 中央と東側に山があり西側は海です。道が整備されていない昔でしたら村の鎮守様へちょっと行くにも中央部の山越え、または岩場の海岸淵歩きはかなりキツイことが想像できます。(特に老人や女性子供には危険)
それで2分社したのではないでしょうか? そうだとすれば南側の神社が先に創建されたと想像します。←(個人的な勝手な想像ですので適当に聞き流してください。)
ということで今回は集落の北と南にある2社のうちの南側の『豊受神社』に寄ることにします。
その2に続く。
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